井沢弥惣兵衛

井沢惣兵衛とは
井沢弥惣兵衛は、今から三百年ほど前、海南市野上新に生まれました。八才のときのことです。彼は父に連れられ、紀三井寺へおまいりにいく途中、亀の川の堤を歩きました。そのころの亀の川は、且来から紀三井寺、布引へと流れ、和歌浦湾に注いでいました。そして大雨が降ると亀の川の水はあふれて水害が起こり、付近の人々は大変困っていたのです。このことを聞いた弥惣兵衛は、自分の目で実際にこの川を見て「こんなに曲がりくねった川では水害がおこるのは当たり前だ。流れをまっすぐにして、西の毛見浦へ流すと水害は絶対起こらないはずだよ。」と言ったそうです。この筋道の通った言葉を伝え聞いた大人の人たちは、わずか八才の弥惣兵衛の賢さに驚きました。そして、それから後、この川の流れを変える工事を自分の手で実行したのです。このように、彼は生まれながら素晴らしい才能を持っていたので、一生の間に数々の工事を成し遂げました。その後、彼が六十才の時、将軍吉宗に呼ばれ、各地の河川の開発にますます努力しました。
引用文献:久世正富、佐古善亨、斎藤英二、中村和夫、中西彊子、南方久晴、山中克彦、島敬一郎、中田光昭『ふるさとをたずねて その二』海南市教育委員会,昭和五十一年,p.24,25
井沢弥惣兵衛と野上八幡宮
野上八幡宮の氏子出身であった紀州流土木工法の始祖、井沢弥惣兵衛は8代将軍吉宗に重用され、江戸幕府に出仕され、幾多の工事を手掛けました。亡くなる2ヵ月前に永代祈祷の布施料として、4石1升3合の田地を買い求め、郷里の野上八幡宮へ田地を寄進されました。寄進状や手水鉢は弥惣兵衛の遺物として、野上八幡宮に現存しています(*画像は「井沢弥惣兵衛 野上八幡宮託宣記修復奉納記」)。
