野上八幡宮について
野上八幡宮の御由緒
野上八幡宮の由緒は古く、神功皇后は三韓遠征の帰途、誉田御子(後の応神天皇)と共にこの地に逗留されました。それ故に金明天皇(550年代)の宣命により、応神天皇の霊を勧請し、八幡宮を建立したと伝えられています。永延元年(987年)石清水八幡宮の別宮となりました。
万寿2年(1025)京都御所からの宣命により、紀伊国3分の1をもって本殿、末社に至るまで19社中門、回廊、神楽殿等22屋を御造営されました。
万寿4年(1027)放生会その他神事一切石清水八幡宮の社例に准じて行うべしとして、石清水から神職葛葉氏を検知職に補任し、塾田210町を以て神領とし、野上荘、現在の四野上(野上町・海南三野上地区)を定め、当宮を中心として荘園統治が行われました。
これより後は、当宮の隆盛は石清水と並び大社の一つとしてた崇められました。
その後幾多の兵乱にも災厄をまぬがれましたが、天文10年(1541)根来の衆徒が突然来襲して、放火略奪を極め、このため社殿・堂社をはじめ財宝文書に至るまで悉く灰燼となり、神事や祭礼も廃絶しました。
その後16年を経て、弘治3年(1557)江州(滋賀県)出身の真賢上人のご尽力により、再建に着手され、本店・若宮社を始め拝殿・武内神社も再建されました。
豊臣秀吉が天下を平定し、社領はすべて没収されましたが、紀伊和歌山藩初代藩主となった浅野幸長(あさのよしなが)が紀州に封ぜられ慶長6年(1601)に3石の地を社領として寄進し鳥居・神輿も奉納してくれました。
徳川幕府になり、初代紀州藩主となった徳川頼宜(とくがわよりのぶ)が封ぜられてより4年目に当宮に社参され、その後度々参拝され鳥居の再建・絵馬・石灯篭等奉納されました。
当宮氏子出身、紀州流土木工法の始祖となった井沢弥惣兵衛(いざわやそべえ)は8代将軍徳川吉宗に重用され、江戸幕府に出仕され、幾多の工事を手掛けました。亡くなる2ヵ月前に永代祈祷の布施料として、4石1升3合の田地を買い求め、当宮に寄進されました。
明治2年、神仏分離により、当宮の境内から本願寺・神宮寺等が除去されることになりました。
明治45年に氏子内産土神社156社は当宮に合祀されました。
昭和32年より3ヵ年にわたり、解体修理が行われ、また平成5、6年に檜皮の屋根の葺き替え、塗り替えの工事が行われました。
野上八幡宮
名称 | 野上八幡宮 |
宮司 | 藪洋平 |
所在地 | 〒640-1141 和歌山県海草郡紀美野町小畑625 |
電話番号 | 073-489-2162 |
FAX番号 | 073-489-5808 |
営業時間 | 午前9時~午後5時 |
定休日 | 年中無休 |
拝観料 | 無料 |
駐車場 | あり 無料 |
見学所要時間 | 約20分 |
主祭神 | 誉田別命、息長帯姫命、玉依姫尊 |
文化財 | 国指定重要文化財:本殿・武内神社社殿・平野神社社殿(室町時代)指定年:1944 年 9月 国指定重要文化財:拝殿、高良玉垂神社社殿(戦国、安土桃山時代)指定年:1944 年 9月 都道府県指定重要文化財:絵馬殿(戦国、安土桃山時代)指定年:1962 年 2月 国指定重要文化財:赤銅鳥頸太刀(しゃくどうとりくびだち)指定年:1922年4月13日 |
創建年代 | 安土桃山 |